昭和39年12月16日 朝の御理解



 何をするでも、同じ事だと思うんですけれども、そのなす事、する事に1つの味わいと言うものが出てこなければ、その妙というか妙味というか、のが出てこなければ値打ちがないように、信心でも同じ事。おかげを頂くと、おかげが頂けれるという味わいで、けではなくてね、おかげになっていくまでの、味わいというものが、私は大事だと。味わい方というのが大事だと思う。
 先日善導寺のご大祭の時でした。ご直会の時に私始めて聞いたんですけれどもあのう、善導寺のあのう、岸先生ですねこの人あんまりその家の父さんばっかりはもう絶対食べ物の口上は言わんという事を聞いておりました。奥さんからけれどなし口上を言わんかという事が解ったんですけども、全然甘い辛いが分からないそうですね。ですから何を食べてもあの美味しいという事、ただ腹が大きくなるというだけだそうです。
 ほんなこつじゃろうか、というて私聞いたんですけれども本当らしいです。私はもうどうでもあのあそこの、総代会の時なんかはお御馳走する事はやかましい、言いますもんねあの人は。岸先生がもう一人でそれを言われるです。もうお御馳走しちゃいかんち、そして自分がお御馳走でも、お御馳走じゃなくても良いだもんですからね。けどもお酒味わいなろうもんっちいうたら、お酒も対した味はなかっち。
 ただ酔うけんで飲めるっち言うごたる風な事を聞きました。そんな人があるんですね。音痴と言うんですね。言わばその味の音痴ですよねいわば。信心にもそんな人があるかも知れませんですね。ただおかげさえ頂けばあぁ良いという。その味わいも何もない。私はその信心をその味わいが分かって初めて、お徳も受けられるような信心に進むことが出来ると。3、4日前でしたかね。
 私皆さんの前に朝のご祈念の時にねず、ねずみが最近大変、御神前まで荒らすという話をした。ね、そこでねずみ取りを掛けようとも、猫を置こうとも思わないと。これは私の信心の不行き届きだと。神様が私に対するお気付けだと。言わば警鐘乱打だと。ね、神様にすがらさせて頂き、自分でもそういう信心もさせて頂いて、まぁお願いさせて頂いておるんですけれどもその日を境にですね。
 ガタガタ言わせんよんなっととだけは事実だったんです。ここ何日間か。ところがです、今朝御神前見たら柿が下にこう落ちておりますもんね。いわゆる又その柿に来てるわけですね。まぁある意味でガッカリいたしますけれども、本当にどこにお粗末ご無礼があるやら分からんのでございますからね。神様はいう事聞いて下さるようかに、見えたんですけれども、実際はまだそうではないという事なんです。
 けれども、そこにね味わいの分かる信心をさせてもらわなければいけないという事です。その事をご祈念中に思わせて頂きよりましたら、ここでは致しませんけれども、他所(よそ)の教会に参りますと、必ずご大祭の時に一番最後のお供えに塩水と言うのが出ます。盛り塩です塩がこうピラミット形に盛ってあります。同時にあのう水玉、ね。にその水がお供えされます。
 あれは神様に色々な物をお供えさせてもらって。水と塩で味を付けるという意味だそうですね。その特にその盛り塩のところを頂くんです。ははぁ神様が味をつけて下さりよるとじゃろうと私は思うた。ね、例えばお供え物ならお供え物1つにです、例えばお粗末ご無礼があると。ね、ねずみがそれをその汚したり、齧(かじ)ったりすると。そういう事の中にです、ね、
 そこでそのどういう事になって味が、味になってくるかと言うと、その事によって様々に思うてみると、様々にああでもなかろうか、こうでもなかろうかと修行もしてみるわけです。そこに味わいが出てくるんですね。この辺が私は、信心の味わいじゃないかと、願ったことが、願い通りにすかすかとこうおかげ頂いていったら、味はなかと。それけんというて、そのただその事を願い続けるとだけじゃ、味はでらんのです。ね、
 願い続ければ地団駄踏むようにして修行でもさせてもらえれば、神様がなんかおかげを下さろうけれども、それだけではおかげを頂いた、腹いっぱいになったというだけでは、つまらんですね。折角その山海(さんがい)の珍味と、様々な食べ物食物をこう、神様が作って下さる、それぞれの甘い辛い、酸い苦いというような味わいと言うものを下さっておるのであるから。
 その甘い辛い苦い辛いの味わいを味わけてこそ私は本当のことじゃないかなぁとこう思う。ね、だからそのあぁでもなかろうか、こうでもならろうかという、私は心の上にです、話を聞くばかりが能ではない、我が心からも練り出させてもらう味わいというものを、味おうていかなければいけないと。バカらしい。ね、信心のおんちになっちゃならん。先日もでした、親教会にあることでご相談に行かなければならないような事がありましたから、参りました。
 その時にまた、このうここの教会の問題やら、私の教師資格問題やらの話が出たんです。なんとうなしに、もたもたしてるんですね。又話が元に戻っているような感じなんです。一つも進んでいない。おかしなことだとこう思うんですけれどもね。それで最後に親先生がとにかく、信者に任せるか私に任せるか。と、言う様に言わば、先生のまぁその時の一つの切り札だったと思うんですけれども、そう仰るんです。
 けれども親先生、私本当に神様任せであると言う事なんですけれども、どうでしょうかと、私が申しました。私の親が、私のことを一生懸命思うてくれますと。例えばなら勝彦なら勝彦が、長男が私のことを一生懸命感じ、思うてくれますと。その思いと思いが違うで良いもんでしょうか、と私は申しました。ね、親の思いとは、例えば子供達の思いがです、私に対する思いが互い違いになって良いもんでしょうかと。
 親先生は私のことを一生懸命思うて下さる。私共信者も、私のことを一生懸命思うてくれる。その思いと思いが違うて良いでしょうかと。その思いが一つになった時ならばです、それがどういうような事であっても、私そんなことに任せますけれども、ここんところで私に任せるか信者に任せるか、と仰ってもです、私これに対して御返事申し上げられないって。申しましたことです。
 ね、ですから、信者の思いと、親先生の思いがです、それは1年が2年、3年5年たとえかかってもです、ね、本当のことが本当のことへとなって行く所に、私は信心の言わば今日言う味わいがあると思うんですよね。別に私が、教師になり急ぐ訳でもなかなければ、早く教会にして欲しいと言う事でもないから。放任しとくというのじゃない。やっぱり神様の思いとしては、三代金光様の御言葉にもあるように。
 やはり『教師としておかげを受けたがよろしい』とこう、言うておいでられるのですから、やっぱり言うのなら1日も早う、そういうおかげを頂けることは望ましいことですけれども、ね。それであの手この手を打ってからまで、ようは芝居をしてからまで、私は教師になろうとは思わん、と私は言うような事を申しました。帰ってまいりましてからです、そのことを久保山先生とストーブのそばで、こうやったと言うて話しておりましたらです、この障子を頂くのですね。障子、貼ってある紙を。
 この障子紙はあの、ずっと模様のいったような障子紙がですね。丁度あのう何て言うですかね、紙くずのような物がずっとこう、障子の中に、まぁ折り込んであると言うですか、こうねえこううずの模様が入ってるようになってるわけですね。紙はやはり神信心のことでしょう。さぁここが信心の言うなら味わいぞ、とこう言うて下さった。言わばこのことを頂きますからそう思うたんです。もたもたしておる。ね、
 くずのような物がいっぱいこう付いておるようではあるけれども、これが一つのかえって普通の障子紙よりもです、趣きがあるでしょうが。ね、普通の障子紙よりかはいくらか高い。いわゆるその趣き信心の趣きというものが私は大事。だから趣きは趣きと悟らせて頂いてです、ね、ただ時期を待っとくというだけではない、ただ拝むと言う事ではなくて、あぁでもなかろうか、こうでもなかろうか。
 こちらの思いが間違うておるのじゃなかろうかと言う風に、ならせて頂くところに、今日私が言う味わい。いわゆるえい水のを付けてえい水を持って味を付けて下さる、神様のご神意が分からせて頂くのです。福岡から安東さんが昨日お参り、ご主人の方がお参りになりました。ある難儀な問題の連続なんですけれども、本当に神様の間違いない働きに恐れ入りますと言う事。
 あるかと思うと、この度のことなんかは一つのことが成就しなかった。ね。そのことでです、だいたい、非常にこの何と言うですか。妙な理屈を言われるです、この安東さんは。今まで、その過去の信心にはです、私共が理屈にしないような事を理屈を言われるです。それでもああして、やっぱりしげしげと参って見えるです、ご主人の方は。ところが今日お届けにやってからです。
 先生この度のこと、本当に思えば思うほど神様に対して相済まんと思いますと。神様が下さろうとしておるおかげをよう頂きませませずに、本当に心から、もう私は心からこの度のことはお詫びが出来ました、とこう言われる。そしてです、もう本当に心の底からお詫びさせて頂きよりましたら、こりゃぁお詫びだけじゃ相済まん、このことによって何かを分からせて下さろうとしておる。
 何かを育てて下さろうとしておることが、段々気付かせて頂いたら実感としてです、お詫びもなかずに真からお礼を申し上げるような気持が頂けるんです、と言うてもう、私はもう本当にここから、安東さん素晴らしい事ですね、と言うて話したことでした。お願いをした、おかげにならなかった。そこでお詫びに徹底させて頂いておったらです、お詫びだけでは相済まん。
 これはお礼を申し上げることであった、と言う事に気付かれたと言う事。何とその素晴らしい味わいじゃないですか。信心なそれなんですよ、と言うてからまぁ共鳴しながら、お話聞いたり、話たりさせて頂いたことです。ね、自分がおかげも頂けませずに、と神様にお詫びをさせて頂くと言う事だけでも有り難いです、真からお詫びさせて頂くと言う事だけでも。ね、いわゆる、謙虚な元気な心がそこから出てくる。
 謙虚な元気な心でお詫びさせて頂く、謙虚な元気な心。これが私は実意丁寧だと思う。ね、その実意丁寧を持ってお詫びさせて頂きよりましたら、こりゃぁお詫びだけじゃぁいかん、この事によって分からせて頂く事をいよいよ思わせてもらうと、これはお詫びだけではいかん、お礼を申し上げさせて頂く。本当にお礼、それこそお礼とお詫びばかりを申しております、と言う事になってきとる。
 しかし有り難いですね。心の進むと言う事は。口では申しますよお礼とお詫び。ね、けども心からそれが、あぁ言われるところに信心の成長があると思うんです。いわゆる安東さんは、今日申します御理解から言うと、何とも言いしれんほどの味わいと言う物を、味おうて行きよりなさると言う事になるでしょう。ね、どうぞ皆さん折角信心をなさるのですから、ね、信心の音痴では、なってはつまりません敏感に。ね、
 甘い辛い苦い酸いの味わいをです、本当に味合わせて頂きながらです、そのおかげへ向かって一歩一歩進んで行く。これなら、もう間違いなしに力になるでしょう。ね、これならば必ずお徳になるでしょう。そういう信心の進め方。ね。神様がわざわざ、私共のために塩水のおかげを下さる。それを持って味わい、言わばこの塩は塩に通ずると。これを塩に改まらせてもらう。
 これを塩に元気な信心をさせて頂こう。いわゆるチャンスという意味なんです。ね、そういう例えば難儀が、そういう塩を、そういう事を塩に、お互いの信心が一段と進んでです、お詫びやら同時にお礼やら申し上げれるような、どう言う事の、からの中にでも、おかげを頂けるおかげをこうむりたいと、そういうおかげを頂きたいとこう思うのですね。   おかげ頂かなければなりません。